2011年1月5日水曜日

自殺は一つの解決なりや?




この問いは「シュルレアリスム革命」第一誌の有名なアンケートである。産まれてこのかたある意味でずっと、そして今もこの問いからは逃れられない。それは「あなたは何故生きているのですか?」と問うことと同じであるし、これからもこの問いに対する答えを探し続けるのかもしれない。墓を掘って、死体を繰り返し埋めるように。世界に対して生きるということはどういう意味を持っているのか?ということだけれど、「意味なんてまるでない」と吐き棄て、ニヒリズムに徹し、グノーシス的な意味の牢獄に最期の餞を贈呈することは、確かに枯れた薔薇に水をやるような無意味な美しさはある。

決して蘇らない死体に蘇生の魔術をぶつぶつとボケ老人のように唱え、鎖に繋がれた灰色の犬たちは骨だけを拾う。そして死の匂いすらもやがて消えさるだろう…それが永遠であるならばプラトンの魂の不死論はそもそも存在しなかった。有用性のない哲学も必要だ。いや、有用性のないことが哲学であるのかもしれない。「これはパイプではない」ミシェルフーコー。「さあ、音楽だ」ロートレアモン。続け!続け!さあ、続け!肉体の生臭さを鼻で嗅ぎ目は真直ぐに盲信的に痕跡を辿り、アリスの純真な目がウサギの後を追うように?出来事に介在しないangel eyesの中のクリスタル。

仮に死が物語の完結であるとするならば、どうだろう?それが具体的に見えてしまったら?…これは見えていなければ恐怖であるし、見えているならば麻痺したアパシーだ。無気力isDead 無気力 is dead!!目の前に死者たちの「のろし」があがる。アイスキュロス、ソポクロス、エウリピデス、ビックバン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

自殺なんて馬鹿げている!自殺なんて馬鹿げている!呼応する掛け声、無意味な生の論争!クリトンがソクラテスを脱獄しろと説得したあの晩が日々歴史と共に繰り返され、残骸として蓄積される、忘れようとしてもますます忘れられない、逃れようとしてもますます逃れられない、生の意味とは?完結を死に求めても、完結は死ではないのだから。ここは牢獄だ。そうだった…置き忘れられた教会に眠るアルトーの聖パトリックの杖。世界を変えられるって?最終処理場のがらくたの山で光が照射され、死者たちは決して介在せずに甘いミルクを呑む。自殺を推奨したジャックリゴーのようなダダイストたちの極限の美しさ、これはある視点からみれば、反証的に生の意味を物語っているともいえるだろうし。

正直に言おう。この問いに取り憑かれても何も分からない。全くと言っていいほど何も分からない。だが、何もないとは言いきれない。
例えばロートレアモンのように激しく言葉を闘わせ、すべての感覚を乱調し、人間の理解の範疇を遥かに超越し、飛び越えなければ、この問いに関することは何も分からない。

そして、何も分からなければ革命への可能性の芽はすべて潰される。革命は弁証法ではない、ロジックからは絶対に生まれないし、絶対に看破出来ない。したがって、ロジックによる思想、体系的構築、政治活動、暴力、テロリズム、論争、演説、闘争は無意味だ。まだ音楽のほうが近い。ロートレアモンの唯一高価な所持品であったピアノから生まれた「マルドロールの歌」には「abcde...」も「あいうえお...」もなかった。つまりある意味で「言語」ではなかった。古びた下宿で「アル中の手の震え」が奏でる美しい旋律。そして「解剖台の上での蝙蝠傘とミシンの出逢い」。これは眩い光の啓示により、誰にも知られず成し遂げた、ある革命的な出来事のひとつだ。





……なるほど。


「これは   がみた夢だったというわけですか?」



   が見た夢は「他者」と「他者」が飛行場の滑走路に立っていた。
見つめ合わない、ロマンのない無感動、不完全な、「他者」と「他者」となった。





   だけが知っている、人間の理解の範疇を遥かに超え、惑星の軌道を並べる大きな手の存在を。





楽園の林檎を食べなければ?もし聖書が燃やされていたならば?…




仮に→仮に→仮に→……そしてフィードバックされる無感動都市から宇宙へ。





アルトーさんよ、すべては壊されたままなのでしょうか?




言語を発した瞬間から予定調和的に崩壊へと向かい、終息は必然的な責務だ。
土地は土地でなく、海は海でなく、都市は都市でなく   がみたただの風景にすぎない。






いずれすべては消え去らねばならないのだろうか?

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