2019年12月26日木曜日

あなたは何かしらの革命を夢みたことはあるのか?

すでに自分自身で解決し、諦め、革命という選択肢を捨ててるんじゃないだろうか?

生活の向上、労働意欲の賛美、群れの幸せ、友人また家族を大事にするのに、何故他のこと一切には全く目を瞑ってしまうのか?私の革命はあなたの100円玉よりも劣っているのが現実だということは知っている。

かくれんぼは放課後からずっと終わりなく続けられ、あなたの輪の中でずっと死ぬまでその遊びは終らない。わんやわんやと掛け声や整列の威圧的強制、なんて権威的でつまらないんだろう?と思った。私は私自身のことを自分で判断し、善悪も遊びも時間割も、何をやるかすべて自分で決めたかった。

「革命なんてどうでもいいよ、私は私で幸せだから、分からないことなんて見たくも聞きたくもない。」

まわりの探究心のなさはより一層私を孤独にさせた。私は放課後の遊びには参加せず、学校を途中で抜け出し、高速道路のフェンスの上を見上げながら、住宅街であらゆるものを威嚇し、軽蔑しながら、あまりに無力な自分に腹がたち、アスファルトにゲロを吐き、安全な校庭で遊ぶよりも私はもっと危ないところに身を置いて遊ぶことを子供ながらに望んだ。幾つもの革命を夢見た。その時はただの夢物語だった。私がいくら腹を立ててもまわりは不動であることは分かっていたし、永遠に私は救われることはないだろうと思った。ユートピアなんて幾ら歩いてもどこにもあるはずがなかったし、ただの一人ののけ者にすぎなかった。私の本当にやりたい遊びには誰一人として参加しなかった。のけ者から脱出し、とにかく強くなりたかった、強くならなきゃ救われることなんて絶対にあり得ないとまず一番に思った。

強くなること?出世?お金?名誉?友達を増やす?ものを手に入れる?組織で頂点に立つ?どれを並べ立てても、より一層空しくなった。ますます寂しくなるばかりだった、生きている意味なんて全く何も見つからなかった。そして、当然のように本来の世界はこんなところにないんじゃないか?という妄想に取り憑かれた。これは社会的にみれば落伍以外のなにものでもないだろう。だが、落伍しないものは怠慢でしかない。

私は私の牢獄を彷徨いつづけ、何百回も悪夢を繰り返し体感し、救い難く、魂は擦り減り、光は見えず、泣くことも喚くことも怒ることも、すべては自分が無力ということの実体験であり、具体的な日々の証明でもあった。

革命はいつの時代であろうとも敗北する運命なのだろうか?
私も私の革命に敗北するのか?

私たちは革命という「夢物語」に騙され続けた。ルイ=フェルディナン・セリーヌは夜の果てへの旅を執筆し、独自の文体を手に入れ、あらゆる「社会」に絶望し、一握りの望みを託してソビエトに発ち、熱狂と純粋な眼差しを従えて「革命」を視察した。石井恭二氏が指摘するように、革命とは名ばかりの「官僚制全体主義社会」にセリーヌは「革命」なんか見いだせるはずもなかった。

「共産主義の魅力、正直認めて莫大な功績は、私たちの前に、やっと「人間」の仮面剥いで見せてくれたことだ!人間から言い訳を取り除いてしまったことだ。何百年にもわたって私たちは騙されつづけたきたのだ、そいつに、人間に、その本能とか、苦しみとか、ご大層な目標とか呼ばれるしろものに…たわいもない夢をみさせられ…底なしだ、穴蔵みたいに、どこまでもこいつは、人間は私たちを騙くらかすか!…大いなる謎。こいつは常に警戒を怠らない、用心深く身を潜めて、取っときのアリバイのかげに。つまり「強者による搾取」。これなら天下ご免、文句のつけようのない…。憎むべき制度の殉教者!キリストと同格!」
(懺悔 ルイ=フェルディナン・セリーヌ 生田耕作訳) 

セリーヌは革命とは名ばかりの共産党の搾取に絶望した。
スターリンのような腐ったオツムは今でもどこにでも目にする。

人間は人間をなぎ倒すことしか考えない。
プロレタリアート対共産党、ファシズム、国粋主義、アナーキズム、マオイスム…イデオロギーを支持することは、対立したイデオロギーをひねり潰すためにあり、その対立したイデオロギーを消し去っても、また新たな蛆がそこいら中に涌く。その意味でイデオロギーの対立が何かを救ったことなんて一度もないし、あらゆるイデオロギーが機能することはあり得ない。ドゥルーズが指摘する「装置」や「機械」としての機能を携えるだけであり、あらゆる人びとは登場人物でなく、観客として、その光景を指をくわえて見つめるだけに留まる。何もかも見失った社会は、めくらのように機械的都市を彷徨い、お互いがお互いを気付くこともなく、機能を失った「無実体」としてしか存在しない。「無実体」は錯誤された似非の空間の中に死体のように蔓延り、見捨てられた死体の山は海岸で積み上げられ、肉体は泥に塗れ沈殿し、窒息する。無実体化された原野での視覚認識は記号化されたそれぞれを最小単位で限りなく再生産し、殆どミクロにまで陥れられてしまった、人と人のそれぞれの目は、あらゆる言語表現、物体認識、空間把握構成事物を無稼働のまま、瓶の中に押し込め、無感動化(アパシー)された社会となる。そこに集められたひとつの知識はゴシップよりも醜く、酷い。その意味で知識はウイルスであったといえ、我々は感染されたまま、一個の死体となってしまったのではないだろうか。

「20世紀に甕の中から発見されたグノーシス文書は言っている、世界を知った者は一個の死体を発見した、彼は世界にふさわしくないのだと。そうであるなら彼にはふさわしくない世界は一個の死体になったのではないか?」鈴木創士氏

死体を死体として遺棄しておくべきか否か?
ここに革命の観点がある。

私はあらゆる政治的革命を全く何も評価していない。それは革命ではなく、権力の鞍替えにすぎない。何もしていないことと同じであり、その意味でマルクスは無視するし、唾を吐く。私はアントナン・アルトーの目の中に火を見つけた。アルトーの革命的照準は全く正しいものであった、アルトーは火を自らの手で燃やし解放し、運んだ為に火傷し、プロメーテウスから火を奪い、ロデーズで取り憑かれたようにノートに書き連ね、火と運命を共にした、その破壊的二次元性は聖パトリックの杖の火花に象徴され、「ロトと娘たち」のあの火はアルトーの生そのものである。火は死を殺め、肉体を曝け出し、電波と闘い、呪いを告発し、生を消耗した。アルトーの後期の著作は火と共に生きた非常に明晰で激怒による闘いであり、これ以上の記録は他にはない。

しかし、火が空間を変貌させることはない、火は原始からの処罰であり、火を我々は無視しなければならない。火は革命から最も遠いところにあり、火を操ってるうちは、革命はあり得ない。火を捨てろ!処罰を受け入れ、家を粉々に壊せ!原始人に戻れなんて言ってるわけではない、むしろ私たちは新しい人類にならねばならないのだから。視覚に騙され続けたわけだから、光を誰も認識出来るわけがない!光を革命し、空間を創出する!

宗教裁判大審問的な処罰!悪魔対天使、聖灰、すすり泣き、光学は、人体のやえ歯を研ぎすまさして、歯が時空を彷徨って、飛び散った子宮は石灰塗りの廊下を往復していた、思わず笑い、精神神経科の先生に話していた。「まったくの妄想です。」と彼はいつものように言って、乾いて固まった血のように見えた。人生は何と妙なものだろう、窒息、杖を振りかざし、ヘロインのほうに手をのばし、蒸留水は腐ってて、陽陽陽光々、はさみをもって試しに空間をきってみたら、折り鶴が出て来て、そいつは立体でなく、二面的でポリゴンみたいだった、腐った時間厚ぼったい時間、病気になった時、トマスアクィナスの無神学大全を逆さまに読んで、窓を閉めて、横になって、昼間扮していた人物の属性は間違ってると思った。何を喋ってるのか完全に理解した!はじめに言葉はなかったし、言葉なんていつでも簡単に捨てられる!!カタリ派ともマニ教ともグノーシス的運命は辿らない、一線を画する。平方根、刺が真ん中に刺さった円周率、差別的空想的で概念なんてクソ食らえ、並立は喋るやつなんてみんなヤクザだ、確率は燃やせ、時間を慰め給え、病は内部をすべて蝕んでいた、アルトーがいう呪いはすべてを蝕んでいた、呪いを告発する以前より、光はどこにも見当たらなかった。

もはや、書くことは歴史を完全に捨てる行為においてのみ成り立つだろう。


「今こそ主よ、あなたはこの僕をして、わたしの目がもうあなたの救いを拝見しましたからです。この救いこそ、あなたが全人類のため、その目の前で、用意されたもの、異教人には啓示を、あなたの民イスラエルには栄光をあたえる光であります。」ルカ229ー232 

いや、光に対する認識は誤っていた!!!光は世代的機械を介在し、空間を根こそぎひっくり返し、私たちは光に対する人類最初の実習及び解剖を始めよう!!

私たちは本来の光によって導かれ、光学的革命のヴィジョンを獲得する。
革命の敗北なんか認めるわけがない!
本来の光による、超空間の創出を急務とせねばならない!

陽は射して、光明はあなたたちの一辺倒な視覚を蔑ろにし、ズタズタに切り裂かれたビニールの裏側では、聖パトリックの予言書と共に、物質の粒子をすべて掻き集め、スクラップの電子的記号器官の山が積み上げられ、老いたる海が死んだ粒子の山を一掃して、光を改革するだろう。

イリュミナシオンは映画のための映画などではない。すべて活動のための、光学的革命のための、指針にすぎず、始まりにすぎない。イリュミナシオンは光に裏切られた人類の闘争、序章の記録である。

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