2011年11月7日月曜日

霊性と情報 カイエ2



「アラン・バティウが言うように資本主義という抽象的普遍と結託した多、他文化相対主義(そして特殊、個別的な共同体主義)において何ら希望も見いだせず、ますます世界は救い難く絶望をより深く実感するのみに尽きる。彼らは若者であっても生まれながらの老人にすぎないし、仮象実体を増やし続け、偶像を好み崇める、歴史は終わることなく、彼ら自身がその歴史の主体となり、偽造の生を産み続ける「自動機械」となってしまった。オッカムの言うように実体は無闇に増やしてはならないのであって、情報の湾曲、偽造を常日頃行い、ますます自らの欲望を架空の意識化を用いて体現化し、ますます実在を地に失墜させ、光の見えぬままとなるのである。また、これらに抗い続けるものであっても同時にこれらの犯罪に加担している一面も私には見えるし、例え反論があったにしろ彼らは生の偽造を操作する者たちともすぐに同一化し、実際は自分たちが分かち持っている無知を軽蔑するのである。というのも、この嘘に満ちた生の偽造を操作するものたちに対して提供される情報の切れ端は、すぐさま嘘に汚染され、検証不可能なものへとただちに変貌を成し遂げ、その実体を掴むことは理論上不可能であるからだ。そんな情報でも、偽の生を体感させる以上彼らにとっては自らの知性、顕示欲を満たす絶好の機会であるから、ただちに日頃の鬱憤を晴らす余暇の喜びに取って変わる。なぜなら、何も知らないどんな者に比べても、彼らは自分のほうが優れていると感じるからだ。おまけに、それらの情報の価値は、支配をより一層是認するためだけのものであり、実際にそれを解体するためのものでは決してなく、より深く生を偽造させるのである。それらの情報に、架空の仮象実体たちは、その餌にすぐさま飛びつき、隠されているものを使うことによってではなく、仮象の空間のみで明かされたものを信じることによって、愚かにも自分には何かが出来るとその優越感のみを鼓舞させ、仮象実体たちの知性の特権の要塞となり果てるのである。そこで生は完全に破滅している。あらゆるものは仮象を操作することにおいてのみ自らの尊厳を確保し、社会はそれらによって商品を産み出し、ますます抜け出せない円環的な相互依存の偽造的なネットワークによって社会は成り立っている。」







霊性と情報 カイエ 


「すべて、本物の肖像は、その霊を持っていてそれに裏付けられている。アントナン・アルトー」


「心の観念と、口を通じて生み出される音の間には、精神と肉体、天と地の間にあるのと同じだけの隔たりがある。にもかかわらず、これほど互いに隔たった事物を結びつけているのは、いったいいかなる「不可知の紙帯」なのであろうか。ハーマン」


「われわれを取り囲む忌まわしい諸制度、
祖国、家庭、社会、精神、概念、知覚、感覚、情動、心、魂、
科学、
法、正義、権利、宗教、観念、御言葉、言語活動が
維持されるのは魔術によってである、というのも実際にはそれらは消え去り、もはやいかなる現実的なものにも一致していないからだ。
アントナン・アルトー」

「(人間)はさらに上へと急ぎ、第一の層には増減の作用を、第二の層には悪のたくらみを、計略を、無作用のまま、第三の層には欲望の欺きを、無作用のまま、第四の層には支配の顕示を(もう)願わしくないまま、第五の層には不遜の勇気と敢えてする軽卒を、第六の層には富の悪しき衝動を、無作用のまま、第七の層には隠れ潜んだ虚偽を返す。…ヘルメス文書 「ポイマンドレース」


「そもそも私たちは、律法は霊的なものであることを知っている。しかし私は肉的な者であり、罪のもとに売られてしまっている。私は、私が行為されていることが分からない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すこともせず、むしろ自分が憎んでいることを行っているからである。もしも私が自分の欲していないことを行っているとするならば、(その判断を律法に従っているのであるから、)律法が良いものであると認めていることになる。しかし今や、もはや私がそれを行為しているのではなく、むしろ私のうちに住んでいる罪が(それを行為しているのである(ローマ人への手紙、七章)」

「光の多化はなんら他の運動に依存しないのだから、そこでわれわれは天が静止し、運動が存在しないと仮定しよう。なぜなら天が静止すれば光の多化は充分よくなされるからである。そして人びとが信仰しているように、もし天が将来静止すれば、世の終わりにそれ(=瞬間的伝播)が生ずるだろうと。従ってもし光の多化が瞬間的であり、時間的でないとするならば、時間なしに瞬間が存在するであろうと、いうのは、時間は運動なしには存在しないからである。しかるに瞬間が時間なしに存在するのは不可能であって、ちょうど点が線なしに存在しないのと同様である。従って、「光が時間において多化し、可視的事物と聴覚器官との形象すべても同様である」ことが、(論理的帰結)として残される。しかしそれは視覚器官によって感覚可能かつ知覚可能な時間においてではなく、感覚されない時間においてである。というのは、人は誰でも経験していることだが、光が東から西へ生じているような時間を知覚しないからである。(ロジャーベイコン)」


「資本主義の脱領土化は恒常的な再領土化を要請する、と。資本は、みずからの運動原理によってその原理が行使される空間を均質化するために、主体的で領土的な同一性の常なる隆起を要求するのであり、これらの同一性は、結局は、市場に単一形式的な特権を与えようとして、自分も他の同一性とまったく同じ資格で陳列されることを要請しているにすぎない。一方における一般的等価物をめぐる資本主義的論理と他方における共同体あるいは少数派の同一性と文化の論理は、接合された(全体)集合をともに形成する。ジル・ドゥルーズ」